『素質の問題ではない、心の条件整備の問題である 』
『 素質の問題ではない、心の条件整備の問題である 』
自分というものを掴もうとする初期の段階で、多くの職員は決まって自己嫌悪に陥る。おれは駄目だなあ、と。 違う! !
自分って駄目だなあと思い描かれているところの自分というものは、それは本当の自分ではない。 自分が勝手に描いている意識対象と化した自分なんだということがわかっていないようである。
本当の自分というのは仏そのもので、すばらしいものなんだ。
(「会計人の原点」18頁)
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自己紹介をすると「私はこういう人間です。」という。 「本当ですか?」と問い掛けてくださっているのがこの項目です。
自分の影像を少し画いてみたことにすぎない。実は自分とは二人いる。画く側の自分と画かれた方の自分がいるとしています。このうち、画く方の側の自分が本当の自分だというのです。
禅の入門時には、この二人が問答をするのだそうです。そして修練を積んでいくと、画かれたほうの自分が消えて、画く方の自分だけが澄みきって、そこに或る状態がくる。そこには勿論、画く自分という意識も存在しない。
私は残念ながら、そこまでの境地は体験できていないのですが、このようなことを「無」の境地というのでしょう。
このような『 心の中の条件整備 をできるかどうか 』 が真の問題だと伝えてくださっています。
「私は、こういう人間です。」という自己紹介。それは自分が勝手に画いたものにすぎない。このことを「自己限定」ともいいます。
「自分には才能がない。」「自分には素質がない。」逆に「自分は他人と違ってこんなことができる。」それらは総じて観念の世界。
観念に惑わされていては、何の問題解決にもならない。
本当の自分を見つけるために飯塚毅という方は「座禅」をしたのでした。
ギリシャ哲学 においても、その目的とするところは 「 自分の発見 」 だそうです。手段は違っていても目指すところは同じなのですね。
平成13年10月号に寄せて

